神社と神道  

 私たちが生活している周辺には必ず、ひとつやふたつの神社があります。そこにまつられている日本の神様は八百萬神といわれるように、実にさまざまの神々がおられ、それぞれ全国の津々浦々の神社にまつられているわけです。唯一で絶対の神を信仰するキリスト教やイスラム教などの一神教に対し、たくさんの神々をそれぞれの地域の守護神として、また神様の神徳(おめぐみ)に応じて信仰するのが、日本の神様と日本人の結びつき方です。こうした氏神信仰や神徳に応じた信仰心が、古来、日本人が最も尊んできた「協調」や「和」の精神を生み出してきたといえましょう。
 また日本をこよなく愛し、生涯を通じて日本を世界に紹介したことで知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は明治維新とその後の急速な近代化の源泉は神道にあった、として次のようにも言っています。

―日本には仏教をはじめ、いろいろな宗教が移入されているけれども、国家存亡の危機にあうと、民族的本能がためらうことなく、かつて最も頼りにすることができた道徳的経験“神道”にたちかえって、その危機を回避する。
 この最高の祭祀、神道はその見事な偉業を達成したので、いまはその地位を退いてしまっているけれども、民族感情に、義務感に、忠義の至情に、また祖国愛に感応する一切の伝統を代表するものとして、いまもなお、不測の力をもっている。
 神道は、今後、またも民族的危機の起った場合に、その感応を折れば効験決して空しくない力として存続していくことだろう―

小泉八雲は明治時代の人ですが、今日においても、日本の文化を研究する外国人がたくさんいます。その数は年々増加の一途たどっているのです。彼らが一様に注目するのは、日本の神々は「和やかな心情」と「しとやかな情愛」をもっており、対立よりも“和”を尊重するという点です。
 しかも、神道が理論によって語られているのではなく、古事記や日本書紀、あるいは万葉集といった古典によって表現されていること、キリスト教や仏教のように「戒律」や「教典」をもたず、神話や先人達の経験の記録を通しての人の道や国のありかたを説いていること、そして、この“神ながらの道(神道)”が日本において十分に実現されていることに深い関心が寄せられています。
 殺伐としたニュースが絶えることがないほど混迷している昨今、神道のもつ“和”の心と、これを具現してきた日本人に諸外国の研究者の眼が向くのは、あるいは当然かもしれません。
 私たちも“敬神崇祖”の美風を改めて見直し、日本の心を子々孫々に伝えて行くことを願わずにはいられません。

氏神・産土神・鎮守神  

 一般に、土地の神様を、氏神様、または産土(うぶすな)様、あるいは鎮守様と呼ぶことが多いのですが、氏神様とは元来が、その氏族の祖神(おやがみ)様や、その祖神様が尊信される守護神のことで、産土神とは、それぞれの人たちが生まれた土地を開かれ、つかさどられている神様。鎮守神とはその土地々々を安鎮守護せられる神のことで、昔はいつも篤い信仰をささげる御神威の高い神様をお招き申し上げてまつることも多く行われました。
 しかし、日本民族は同一祖神につながる同胞であるとの意識は時の流れとともに、その土地々々にまつられている神様を鎮守神であるとともに、自分たちを育てておられる産土神であり、祖神にもつながる氏神様あると受けとめられるようになりました。

参拝の作法  

手水舎の水で心身を清め、入り口の鳥居をくぐる前に会釈をし気持ちを引き締めてから境内に入ります。


手水の作法
右手で柄杓を持ち、水を汲んで左手にかけ左手を清めます
次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。
再び右手に持ち、左の手のひらに水を受けて口をすすぎます。
口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手にかけ清めます。
最後に柄杓を立て、残った水を柄に流してから伏せて置きます。
注:柄杓に直接口をつけるのは良くありません。

神前での参拝の作法  



二拝二拍手一拝
深いお辞儀(90度)を二回繰り返します
次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し引き拍手を二回打ちます。
そのあとに両手を揃えて心を込めて祈ります。両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀をします。